2013年2月25日月曜日

書の評価


――どういう字がいいか判断する為にはどうすればいいのでしょうか。

過去の字を勉強するということもあるが、自分でたくさん書くこと。私は「鳥」という字をたくさん書いたことがあるが、頭の部分を赤くしたらすごくいいものが出来て、満足したら酒が足りなくなって酒屋に行ったことがあった。そうやって、自分の字を追求してみる。過去のものを勉強してセンスを養っておくことも必要だけれども。

でも一方で、上手い下手よりも、「誰が書いた」かということが重要なことがあります。ある人は、父親の書いた字を父親の写真以上に大事にしている。字からは人となりが伝わってきやすいからね。こんな字を書いていたのかとか、自分に似ているなとか、色んなことが一枚の紙からわかる。

また、オノ・ヨーコさんが震災のチャリティで「夢」という字を書いて5万円で100部を売るということをやっていたが、書と言うものは特に評価をどうするかと言う時に、結局は「誰が書いた」のかということになるのです。

――確かに、このオノ・ヨーコさんの書はあんまり上手いとは思えません…

それはオノ・ヨーコさんだからこそ意味があるんですね。こういう「アート」でなく、看板などの「実用のもの」であれば書家の力量がそのまま反映されるのですが。

――コレクターにとっては誰が書いたかということが大事かもしれないけれども、「使う字」であれば書家のレベルが問われると言うことですね。

書の展示会を見たりすると、書家の先生の文字を真似したものが並んでいることが多い。書道六段とか七段で作品は上手でも、署名の部分を見ると「この程度か」と言うものが多い。弟子が先生の文字をまねしていても、自分の名前の部分は幼稚なひどい字だったりすることがよくあります。それだと手紙すら書けないのではないでしょうか。先生の手本をまねするのではなく、自分で「自分の字」を書いて大勢の人の目にさらすことが大事。

年鑑を見ると「○○先生に師事」ということが書いてあることが多い。その先生もまた昔の先生に師事していて、代々作ってきたそういうヒエラルキーで商売している。閉ざされた社会だからね。








(聞き手/編集:加納佑輔|株式会社ソウサス意匠部)